自己紹介  高校時代から今の自分
“プロフィール”つまり自己紹介なるもの。
自分で言うのもなんだが、あまりたいした経歴はない。
生きて来た証とでもいいうか?
自分の良き思い出を書いたようなもの。
まさか、生まれた時からの紹介はなしです!。
私の中で、人生の大きな転換期があった、高校生時代からを紹介してみました。
なかなか、語るには、少し恥ずかしい内容でもあるが、自分を知っていただくという意味で書いていますので、読まれる方は、力を抜いて見てください。
くれぐれも、見たくない方は、見ないでください!
・・・・・高校時代から“ひとり旅”・・・・・
生まれも育ちも広島県の備後地方。
小学校、中学校と、まったく目立つことなく、すごくおとなしい性格であった。
しいて言えば、中学三年に、自分の存在感を持つようになった。

高校に入ると同時に、好きなことをしたい。
それが、ひとりで知らない土地に行きたい。
つまり、“ひとり旅”の始まりだった。 高校3年間に60泊以上はしたことになる。

休みになると、家のバイトで資金集めをして、学校の授業中には、旅のガイドブックや地図とのニラメッコ。
連休や、春・夏・冬の休みには7〜20泊という日程で各地を走り回った。

※写真は、高2、高3年の正月に「京都を歩く」。
 


 
・・・・・ “旅” の交通手段を体験する・・・・・
高校時代から学生時代(専門学校2年間)、南は、鹿児島県から北は山形県までを周遊したことになる。
その時の交通手段は、“徒歩”、“自転車”、“単車”、“電車”、“自動車”、“船”を使ったが、さすがに飛行機だけは使っていない。

高校1年から言えば、自転車で始まり、高校3年の最後も自転車で終わった。
この当時は、簡単に遠くに行ける電車、単車は便利だったが、私の “旅” のスタイルにはあわなかった。

徒歩が一番、素晴らしい旅ができると思うが、こればかりは距離が稼げない。少ない日程の中でこれは、行きたい所へ到達することが難しすぎた。

なんと言っても、“自転車” が、高校生が “旅” するための条件として最適だった。
燃料代もいらない、距離も稼げる(その当時、1日で100〜300Kmを走る)。
野宿をやるようになって、自転車は最高の交通手段であった。

今から思えば、自転車が趣味ではなく、行きたい所へ行くという “旅” が好きで、ぜったいに “ひとり” という条件付きだった。
自分の考えた通り、好きな時に好きな行動パターンができ、自分ですべて決定できるという事が“旅”の拘りだったのだろう。
 ※上の写真は、中国、四国、九州「西日本一周」で、ダックス70ccで走破。
 ※下の写真は、若狭・琵琶湖・紀伊半島・奈良「自転車ツーリング、20日間」。
 

高3の夏、歩くことで、“ひとり旅” が始まった!

体力・気力を試された “旅” であり、これを境に自分が変化したのがわかった。

この「下駄を履いて100Km歩く」は、今までの “旅” の中でもかなり印象に残っている。
とにかく、一番苦しい “旅” であり、自分の体力と気力を試されたような気がした。

体力の限界という言葉が身にしみるほど知らされ耐えた記憶は、いまでもよく覚えている。
限界を打つ破るための手段は、“気力” であった。
体の痛みを抑えることができるのは “気力”。

この “旅” の詳しい内容は、WEB Columnist をご覧ください。
    「私の原点/しれが一人旅」へどうぞ!

※左の写真は、広島市から福山市へ 「100Kmを下駄を履いて歩く」。




・・・・・苦しいほど、記憶に残るのが “旅” なのだ・・・・・
高校を卒業して、東京へ学生(専門学校)として移った。
2年間という学生生活は学費を出してくれた親に対して、一生懸命勉強しようという思いで真面目に通った。
ゆえに、余り長く出掛けることはできなかった。

東京にいる間に、自転車では“房総半島”,“三浦半島”、“奥多摩”、“富士五湖一週、富士山五合目”、“東京−広島900Km走破”、山登りは、“富士山登山(御殿場駅より歩く)”と活動をしていた。

どれも、印象に残っているが、特に、“富士五湖一週、富士山五合目” で、五合目まで、ずっと5時間30分と登た(標高●m)。足を休めると止まり、次のスターを切るのがとても辛く、できるだけ休まず登った。とてもキツイ登りだった。

 また、“東京−広島900Km走破” を2日22時間●分で走ったこと。
所持品は、スペアタイヤ2本とお金と上のジャケットだけ。これは無謀ともいえるツーリングだった。寝る時間も惜しみながら走ったのを記憶している。

※写真は、“富士五湖一週、富士山五合目”の自転車ツーリング。



・・・・・ いろんな力を付けた時期です ・・・・・
1977〜1978年は、仕事の為、東京から大阪に移った。
この2年間は、さすがに “遊び” という言葉を忘れざるえない時期であった。

その後、1978年11月には、家の都合で、広島県に帰郷することになった。
もちろん、家の仕事を手伝う。

1979年から、約5年ほどは、地元の仲間と、渓流釣り、自転車、登山、と“OUTDOOR”全般で遊ぶ。
いろいろな “夢” を友人と語たり、浅く広くではあるが、夢を求めて色々な事をしていた時期である。

 
※写真は、友人と3人で、「槍ヶ岳に登山」登頂。



遊びながら、仕事しながら・・・・・時間は過ぎていき・・・・

1990年までに、結婚もでき、家も建てて、のちに子供にも恵まれ、ごく普通の生活となった。

1991年より、仲間とログハウス建設に没頭し、四駆車にも乗り始めた。
これから、7〜8年がいろんな人と出会い、「夢を持つ人」、「夢を実現させた」という話ができた時期である。
また、ログが完成したことで、自分にも「やればできるという自信」を付けたことになった。

そして、1999年、4×4MAGAZINE社よりの依頼で、“エリアレポーター” として取材が始まった。

エリアレポーター通信として、取材で走るために全国を一人で出掛けることが可能になった。

これをきっかけに、昔やっていた “遊び” という言葉を思い出し、行動できるようになった。


この歳にして、ひとりで昔のようにフラフラする(一人で好きな行動ができる)ことができるようになった。

現在、特に、“短い人生、もとやりたいことをしよう”、大きな事をしたいとは思わないが・・・。
たとえば、「今度の日曜日、休日にはアソコへ行きたい」と計画を立て、できるだけ実行に移そう考えている。


それが、今、自分のやりたい事であるから・・・。

・・・・・ できたら、一生の趣味をみつけたい ・・・・・



1999年よりカメラ撮影を本格的に始め、2002年よりカメラ撮影することを趣味にした。
色々なものを撮ってみて、今やっと撮りたい被写体が決まった。
朝に昇る太陽の雄大さ、沈む夕陽が七色変化するのに魅力を感じて、太陽の光と影と色を撮ることに決めた。

MAGAZINEの取材で全国を走ることになった。
2005年の5月、北東北の旅(秋田県・岩手県)が終わった時点で、ほぼ日本一周(沖縄県を除く)をしたことになった。
今までに、南は鹿児島県の佐多岬、北は北海道の宗谷岬。
日本一高い富士山に立つことができた。
思い起こせば、四国は3周、九州は2周、紀伊半島は2周、中国地方は何周だろう?・・・旅をした。

2007年には、趣味のカメラ撮影としての第1回写真展として“朝日の彩色を写す”と題して個展を開催した。
地元の「光と影の阿伏兎観音堂」を朝日だけで表現。
大成功に終わって今後の撮影意欲が今まで以上に増した。

2008年では、取材と撮影の旅で、4×4MAGAZINEに掲載が57回となり、掲載写真も900枚を越えるようになった。

今、やっと一生楽しめる趣味を見つけた気がした。




・・・・・ いろんなことを知りたくて勉強しました ・・・・・
資 格・検定・習得・所用一覧
陸上特殊無線技士   (1級) 普通自動車運転者 ガス溶接技能者
海上特殊無線技士   (2級) 自 動 二 輪 運 転 者 ホイスト式クレーン運転者 
アマチュア無線技士  (4級) 日商ワープロ技能検定(3級) 小型移動式クレーン運転者
カラーTV受信機修理技術者 日商タッチ入力 1450/10分 高所作業運転技能者
家庭電器修理技術士 (2級) 日 商 販 売 士   (3級) 玉 掛 技 能 者
家庭用電子機器修理技術者 日商ビジネスコンピューティング(3級) 小型車両系建設機械運転者
電 気 工 事 士 危険物取扱者     (丙種)


・・・・・ もう少し知りたい方はリンクしてみてネ ・・・・・
 年表で紹介してます!

  oka39.comより以降  20080628
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