岡村博文 写真展『平安からの時空』に寄せて
瀬 尾 明 男 (写真家)

 カメラには、神が宿る。

 2002年以降、全国の朝陽・夕陽の撮影の旅を続ける写真家・岡村博文が対峙した新たなテーマは、彼自身が生まれ育った土地の、彼自身の原風景とも言える、備後一宮 吉備津神社だった。

 写真は、時間と空間が交差するその一瞬を紡ぐ、小さな奇跡だ。

 虎睡山の杜に、平安の古(いにしえ)から連綿と息づき、繰り返される時と季節。
人々が心の安泰を求め、災いを癒し、幸いを願うこの聖域に、岡村は四季折々、朝に、昼に、夜に足繁く訪れた。気象に導かれ、光と影に導かれ、あたかも神から授かったごときその一期一会を克明に画像として結んだ。

 岡村自身の意志でなされた撮影ではあったが、鎮座千二百年を迎えるまさにこの時期に、実は、彼以外の何者かの強い導きによりなされた行為に他ならない。
彼の歩んできた人生、人となり、ひたむきで一途な姿勢、執念、そしてわずかばかりの撮影技量。それらすべてが加味され、備後一宮 吉備津神社の撮影は、岡村だけが何者かに許された行為に他ならない。

 おそらくは彼自身、昼夜を問わず、撮影中ただならぬ気配を、胸騒ぎを、身の毛がよだつ得も言えぬ感覚を幾度となく経験したはずだ。

 写真は、写真家という修験者・修行者の、撮影という行為への賜(たまもの)、生きてきた証(あかし)だ。
しかし写真家は、媒介にすぎない。死者の霊を呼び寄せる“いたこ”の口寄せ同様、眼前の光景は、選ばれし人・岡村博文の生きざまと視線と、カメラという光学的な道具を通して、写真として初めて像を結ぶ。
そうして授かった写真だけが、幸運にも、目には見えない何者かの魂が具現化したごとき濃密なメッセージを我々に放つ。

我々は写真を見ることで、写真の向こう側に潜むさまざまなエピソードを知覚することができる。
あの日、あの時、あの場所で、シャッターが押されたその一瞬を想起し、写真に蓄積された千年二千年の時を想起し、心で頭(こうべ)を垂れ、心で手を合わせる。


カメラには、神が宿る。